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​●隠れたまちの魅力 

令和元年6月1日 更新

  志免町水鉛鉱山について

     鉱山の開所は定かではないが、戦前に水晶、鉛、水銀、モリブデン(moribidenn)岩石が採掘されていた。

   現在は閉鎖されているが、この鉱山に ”丹” 又は ”辰砂(cinnabar)”が存在すれば、粕屋郡一帯の古代史見

   直されるかも知れない.中国歴史書 ”魏志倭人伝” には卑弥呼が中国に献上したと記載されている。志免町の水鉛

          鉱山産出の”丹”なのか不明だが、下記の小生研究論文から推測すれば、ヒントになると考えられる。

     亀山古墳(志免町)、光正寺古墳(宇美町)、七夕古墳(志免町)の内部は朱色を使用されていたが、材質は

   何か、産出は何処か、調査する必要がある。

   丹は赤色の顔料で長寿・不老不死の薬として使用され古代中国では貴重品として重んじられていた。秦の始皇帝

  (紀元前246~紀元221) は伝説の徐福に命じて ”倭”(日本)に向かわせて丹を探させたとも云われている。

    水鉛鉱山の位置は月隈丘陵(ひばりが丘、桜丘住宅地の下)中腹にあり、麓の地蔵ヶ池の上になる。地元の人か

   らこの池の水は昔から色々な色に変化し、不思議な現象と伝わっている。専門家、地元の方々と”丹”と”池の水”を

   調査する計画を立てています。

   また、参考資料として福岡市の調査論文を引用

   地下水のフッ素汚染源と推定される鉱石の分析 廣田敏郎 ・中牟田啓子 ・(福岡市保健環境研究所環境科学部門)

    平成11 年度の地下水概況調査で福岡市内の井戸水から広範囲にわたって基準値(0.8mg/L )を超えるフッ素が検出

   された。この時行なったた  汚染原因調査についてはすで に報告したが概要は以下の通りである.この地区の

   汚染井戸は地下 30~ 50m の花崗岩層からくみ上げている 井戸が多く,地下水のフッ素とモリブデンには高い

   相関 (0.82 )が見られた.そこで近くのK採石場の花崗岩層に  モリブデン鉱脈が存在することに着目しその石を

   採取し 溶出試験および含有量試験を行った.その結果 3.7mg/L と非常に高濃度のフッ素を溶出する石が見つかり

   この石 が汚染源の可能性が高いと考えられた.今回はこの石の x線解析を行い,汚染源と推定される石の組成を

   明らか にしたので以下報告する.

​      ・・・・以下 調査資料

                                                               

                     著作者の許可なしに複写・引用は法律で禁じられています。

研究論文を志免町、粕屋郡の観光資源に寄与したい。

 

研究論文 1  抜粋

                                       粕屋郡一帯の歴史をしろう! 古代糟屋地区の背景について

 

 

                   ( 全文の問い合わせ   しめテレビまで  E-mail: marimo-mk@csf.ne.jp

 

 

 粕屋地区に那の邑が存在か? 

                

 志免町は石炭で栄えた町だが、古代はどのような場所だったのだろうか?

次の文は筆者の研究・調査したものの抜粋です。「縄文海進」所謂約4000年前頃に、海面が10mほど高くなり、日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入していた。弥生時代の海岸線は津屋本町(東区)、阿恵(粕屋町)、別府(志免町)近辺に達していたと思われる。中国史記の漢書地理志に「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」と記述され、古代の倭には100余の国があったと中国人の目には映っていたと思われる。

 5000年前には南方系や大陸・朝鮮半島からの渡来人が九州に入植し、文献によれば特に北九州への上陸が多かったと思われる。中国の歴史書「魏志倭人伝」に記述されている末盧國、伊都國、奴國、不彌國の以前には100余の邑国があり、その中に”那の邑”(秦王国)の仮説をたてた。根拠は志免町内の旧字地名にカタカナ表示が多く、鉄・船に関する地名(例カジ、アカザキ、タタラ、鏡など)と宮の前、マツリデン、大府、東・西・南の府、堂の前・後などの都府や宮殿を示すような旧町名、また桝角の桝は中国では屋根の一部の名称であるところから大陸の高貴な人や交易人の宿泊所如き建物が桝角遺跡の住居跡ではないかと推測する。また江戸時代の図会などによれば亀山八幡宮の亀山が宇美川に挟まれた島であった様で、安曇族の交易拠点が宇美川河口にあったと想像できる。(★ 隋書倭国伝  和訳 筑紫の東にある秦王国・・・)

 

イメージ図(下記2) 古代那の邑(秦王国 志免町と推定)

 春秋時代の呉・越が滅びるごとに大陸からの渡来人が海女族・安曇族の案内で博多、北九州、更に出雲、日本海沿岸まで入植し、北陸の越前・越中・越後の越は中国の越とも言われている。その頃に秦氏や徐福の一行(伝説)が渡来し全国に広まった。秦氏は鉄・養蚕・織物・山岳信仰などを全国に伝播し、宇佐の八幡宮を拠点にしていたと思うが、大陸との交易や連絡などから博多近辺に秦王国の必要性があるところから、別府の亀山近辺を拠点にしたと思われる。根拠は月隈丘陵の山蔭である事、三郡山系からの伏流水の地下水や山での食料が豊富である事や宮殿・祭殿などが旅人のねぐらの条件に整っていた。

 王子(志免町内の町名)には王子八幡宮があるも、王子とは一体誰なのか、疑問に思う。八幡宮は秦氏とも関連があり、天武天皇(664年)は南里の宝満山では畏れ多いので太宰府市の竈門山を宝満山に変えようと命じられ、社殿を建てたと云われている。宝満山と王子八幡宮の直線上に宇美八幡宮、箱崎宮があり、延長線上には志賀海神社がある。また王子八幡宮を基点として直角線上には若杉山(大祖神社)があり、秦氏と全部関連していることが分かった。

 古事記(ウガヤフキアエズの命の巻)によれば、綿津見の神には豊玉姫(姉)と玉依姫(妹)の二人の娘がいた。玉依姫には四人の子どもがいて、四男のトヨミケヌノミコトが神武天皇で、早死にした長男のイツセノミコトを王子と仮説した。秦氏は綿津見と二人の娘とも関連があり、王子社(旧町名キンケイ)には玉依姫が祀られていました。現在は王子八幡宮の境内にあります。

 日本書紀によれば527年磐井の乱で、筑紫君葛子は「父(磐井)の罪に連座して罰せられることを恐れ、粕屋の屯倉を献上して死罪を免れることを請うた」と記してある。磐井の乱までの粕屋郡一帯の歴史的痕跡を意図的に抹消され、古代の遺物はなくなり、粕屋一帯は謎の深い空白の場所となった。

王子八幡宮の王子は誰なのか?

志免町に王子の町名があり、月隈丘陵の中腹の宝満山に王子八幡宮がある。

祭神は応神天皇の一柱です。拝殿の裏手には竈門神社宝満宮があり、玉依姫が祀られている。本社の由緒書きによれば、本社殿は南里字キンメイ(旧町名)にあり、周りはキンメイ孟宗竹林に覆われ金色に輝いている中に鎮座されてあったが、大正11年4月17日現在の日枝の竈門神社境内に移転されたものである。続風土記附録には、林中にあり、祀る所、応神天皇一座なり。鎮座の年や歴史は伝わっていないと書かれている。

 後の天武天皇(673年)の時代に「南里の宝満山」では畏れ多いので、「大宰府の竈門山」を「宝満山」に変えようと命じられ、社殿(上宮)が建てられたと云われていることから、古代の那の邑(現 志免町)は大陸からの使者や交易人並びに皇族の往来の場所ではなかったかと推測する。

 これらの事例から王子八幡宮の王子は応神天皇と理解したが、神話の神功皇后が応神天皇出産前にわが子の社(キンメイの王子社)に参拝するのは時代的に不自然で、疑問が生じる。

 

 古事記によれば豊玉姫の息子ウガヤフキアエズノミコトが妹の玉依姫と夫婦になり、男の子四人を授かる。長男の五瀬命(イツセノミコト)は戦死、四男の若御沼命(ワカミケヌノミコト)は大和を平定して神武天皇となる。

                             (古事記 ウガヤフキアエズの命の巻より)

 戦死した長男の五瀬命の霊を祀った場所が王子社(志免町南里キンメイ)と比定する。同所には玉依姫も祀られている事から、神功皇后が以前 玉依姫の陵墓(場所不明)に参拝した時 「姉となって、護りましょう」と玉依姫の神託があったと云い伝えられている。神功皇后は重大事、決断事などには玉依姫神のご加護を祈ったのではないかと推定する。

 

                          論文(筆者)「古代粕屋地区の背景について」より一部引用

 P1010184]        著作者の許可なしに複写・引用は法律で禁じられています。

                                 2011年4月 研究論文寄稿  記 笠松 守

一部他の文献より参照引用

 古代イスラエルの失われた10支族とは12支族からユダヤ民族を除いたルペン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族ゼブルン族ヨセフ族12部族によって形成されたヘブライ王国は、ソロモン王の死後分裂し、地中海の東岸のパレスチナには、紀元前10世紀頃、イスラエル王国(10部族)と南のユダ王国(2部族)という2つのユダヤ人国家が存在していた。

前660年ユダヤ人・イザヤ民が日本に渡来した。

 ユダヤ人コミュニティを基礎として生まれた国のひとつが、秦氏との関連が予測される「弓月国」だったのである。ソロモン王朝は鉄の民・ヒッタイトの製鉄技術を弓月は学んだと推測される。199年、弓月国「巧満王」、283年に一族がシルクロードを通して秦氏と日本に渡来した。

 秦氏は、ヒッタイト→古代エジプト→ヘブライ→イスラエル→アッシリア→バクトリア→秦→新羅と移り住んだ氏族であり、古代エジプト式土木建築などの技術力に秀でていた。

蘇我氏と秦氏は、蘇我王朝を建てて明日香を都とし、蘇我氏の製鉄技術と秦氏の高度土木建築技術により、巨大古墳築造・河内湖干拓・大運河掘削などを行い、水銀製造工場・金メッキ工場・ガラス器工場を建設し、さらに東北から近畿に至る道幅12mの直線式高速道路を敷設して、馬車輸送による国際交易を発展させた。

 ヒッタイト(ヘテ)→八ッティ→秦→秦氏→大和朝廷の建国

秦氏の来日は、日本書紀によれば、応神天皇の283年に弓月君が百済から127県の1万8670人を連れて、 日本に来たという。

弓月君の名前は、新撰姓氏録では融通王と呼んでいるそうで、 天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の「ヤマトゥ」から来たらしい。

 この「ヤマトゥ」の近くに「ハン・テングリ(Khan Tengri)山」という山があって、 この山が「天狗」のルーツではないかと言われている。

古代イスラエルの失われた10支族の一つ、 ガド族がシルクロードを経てアジアに向かい、天皇家の祖先として日本に渡来したと唱えている。(サミュエル・グリンバーグ)天皇のことをミカド(帝)と呼ぶが、これは「ミー・ガド(ガド族から出た者)」のことだと言う。 ガド族の始祖ガドの長男の名前は「ニェポン(ニッポン/英語ではジェッポン)」であったという俗説まである。

 

 シメオン族紀元前1200年頃)について

 弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ)は、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖 とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、 中国の西、ウイグル、カザフスタンの辺りに弓月国(クンユエ)という 国が存在しており、古代イスラエルの人々は離散したあとキルギスの北部のエニセイ川源流あたり(現在のカザフスタン北部)に弓月国を立てました。

 そこにはヤマトゥという町があり鋳造や織物などの盛んな工業国だったそうです。「資治通鑑」によると「弓月国」は「三カ月国」ともよばれており、「弓月国」は3世紀から6世紀ごろに栄えた「キリスト教国」だったのである。エルサレムの近くに琵琶湖と大きさも形も似た湖ガリラヤ湖がある。ガリラヤ湖は古代には「キテレネ湖」といい、キテレネは琵琶の意味である。

 

 中国側の史料『隋書』には、筑紫から東に行く途中に「秦王国」なる国があったことが書かれています。この秦王国は前述の『那の邑’』(現志免町)と筆者は推測する。秦氏は、応神帝の時に来朝した弓月(ゆみつき)君の子孫である。姓氏録はこの弓月君なるものは、秦の始皇帝の五世の孫・融通王であるとする。

 秦氏は日本に来ると豊前国を拠点として、摂津国、河内国(大阪府寝屋川市太秦)、大和国、山背国葛野郡太秦、山背国紀伊郡(伏見)などに拡がり、土木・金属工芸・機織・養蚕などに従事した。
 当初から天皇家に協力し、大和朝廷に関わった。 応神天皇時代から急に古墳が巨大化したのは秦氏の土木技術が用いられたと考えられる。

天皇家を援助した秦氏一族は、仏教以外にユダヤ教的でもあり、原始キリスト教(景教)的でもあったという説があります。 秦氏が関わった宗教的な建物や習慣に、ヘブライ語や旧約聖書の儀式・慣習といったユダヤ文化、新約聖書的な教理が知られています。

 

 十字架上のイエス・キリストの頭の上に、ラテン語の頭文字で「INRI」罪状書き(イエスが自らを神の子でありユダヤ人の王であると称し、神を冒涜したとの罪状)と書かれている。 

これは「インリ」、「イナリ」、「稲荷」となって秦氏の稲荷神は霊験あらたかで日本全国に広がったと云われます。

 

 三国志のなかの魏志倭人伝(陳寿)によって伝えられる,弥生時代の日本 (倭) の国。『魏志』の記事はほぼ2~3世紀中期の日本の状態を記したものとみられる。『魏志』によると,当時倭国は 30ほどの小国家に分裂し,邪馬台国は卑弥呼 (ひみこ) という女王の統治する国で,七万余の戸があったといわれている。

 

 隋書倭国伝によれば聖徳太子が小野妹子を派遣して「日出ずる処の天子」に始まる国書を差し出した記録は、この書に残っている。

西暦608年、隋は裴世清(はいせいせい)を大和朝廷に遣わし、東して一支国に至り、また、竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。

中華の人と同じ民だというのだ。秦王国は那の邑(現志免町)、不弥国(現宇美町)、現太宰府市の一帯を「至竹斯國又東至秦王國」の秦王国として那の邑には那国本宮が存在していたと推測する。根拠は現志免町南里の旧地名、字地名には「マツリデン」「タタラ」「キンメイ」「ニレガモ」「石ビッ」「イワツキ」「ヲナシ」「ヲテゴモリ」シカセ」「「東の府」「南の府」「西の府」「タイコデン」です。

​ 5000年前には南方系や大陸・朝鮮半島からの渡来人が九州に入植し、文献によれば特に北九州への上陸が多かったと思われる。中国の歴史書「魏志倭人伝」に記述されている末盧國、伊都國、奴國、不彌國の以前には100余の邑国があり、その中に”那の邑”(秦王国)の仮説をたてた。根拠は志免町内の旧字地名にカタカナ表示が多く、鉄・船に関する地名(例カジ、アカザキ、タタラ、鏡など)と宮の前、マツリデン、大府、東・西・南の府、堂の前・後などの都府や宮殿を示すような旧町名、また桝角の桝は中国では屋根の一部の名称であるところから大陸の高貴な人や交易人の宿泊所如き建物が桝角遺跡の住居跡ではないかと推測する。また江戸時代の図会などによれば亀山八幡宮の亀山が宇美川に挟まれた島であった様で、安曇族の交易拠点が宇美川河口にあったと想像できる。(★ 隋書倭国伝  和訳 筑紫の東にある秦王国・・・)

 

 倭人とは東夷であり、「夷」は「鉄」のことで、倭人は鉄の民族で7世紀には北九州には製鉄所があった。

卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられたと思われる。

391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある

『山海経』(第十二 海内北經:紀元前後成立)は、「蓋國在鉅燕 南倭北倭屬燕」(蓋国は鉅燕に在り、南倭北倭は燕に属す)と記し、この時(紀元前285〜222年)、既に倭国は鉅燕に朝貢していたと推測する。

 志免町の志免(シメ。shime)の由来は、「志免町誌」に宇美八幡宮の大礼のときに注連縄(しめなわ)を張ったので、この注連縄をつくった場所を「志免城戸」というようになり、注連縄から「しめ」と呼ぶようになったとありますが、筆者は視点を変えて次の如く、仮説を立てた。紀元前5世紀ごろ大陸から倭(日本)への渡来がはじまった。 既に記述した通り、秦氏、弓月氏、シメオン族秦氏、シュメール人、フェニキア人、粛慎族、沃ソ族、ワイ族、ツングース諸族、華北・華南人・朝鮮人など異民族が倭(日本)に渡来している。 そのうち北九州には秦氏、弓月氏、シメオン族秦氏、シュメール人、フェニキア人、中国人、朝鮮人などが渡来し、殆どの渡来人が奴国に住み着くか、滞在して、移動が行われた。秦王国(那の邑 現在志免町)は秦氏族が、既に住み着いていた場所でもあり、渡来人にとっては安堵の場所だったと思う。シュメール人が九州に住み着いた痕跡として、熊本県のみみつかわの河口の岩場にはシュメール文字が刻まれた場所があり、大分県宇佐神宮に伝わる御物の石版にもシュメール文字が刻まれた物があると云われている。 志免町の旧町名にはカタカナ表示が多く、音声の漢字転換が難しくカタカナになったと思われる。また渡来先の北九州地区ではヤマト語、漢語、呉語、高句麗語、ヘブライ語などが入り乱れての会話になっていたと想定する。秦王国には前述の様に同民族の小邑や技術団の小邑が存在し、奴国近辺の地域には異民族の小部落が数多く存在し、外国人が集まった集団地だったと思う。

 また志免の「免」は「田」、「畑」の税を免除する由来の説がある(志免町誌)が、筆者はまた次の仮説を立てた。志免には上記で述べた様にシュメール人、シメオン族秦氏が入植し、共同生活を営んでいた事から、シュメールは 英語Sumerian   ローマ字 shu-me-ru が変化して shu-me 、更にshu が shi に変化して、shi-me  平仮名表示「しめ」、漢字(宛て字)「志免」なる。               仮説2は シメオンは ローマ字 shi-me-on が 簡略語にして shi-me平仮名表示「しめ」、漢字(宛て字)「志免」となる。

 次に志免町の南里の由来はつぎの仮説を立てた。佐賀県神埼郡は吉野ケ里遺跡がある場所で、勝大戸ケ里.布施ケ里。東野ケ里。寄人南里ケ里。曽根ケ里。田道ケ里。大塚ケ里など「里」の付く小字名が多く、また那珂川町には南面里、須惠町には南米里、志免町には南里の町名があります。全国には「里」の付く町名は数多くあるが、南里は見当たらなかった。

日野 尚志先生は「南里」の地名は室町時代の「条里制」の名残と論説しているが、筆者は「里」の意味には生活の場として人家が集まっている所、実家、地方、距離の単位、集落などの意味から住む場所を表している。朝鮮半島には「北里」「西里」「東(倉)里」はあるが「南里」の地名はなく、半島からの渡来人が半島の南にある倭(日本)を最初の安住の地として住み着いた場所で、半島から見て、みなみのさと(南里)、「南~里」と名付けたと推測する。志免町の「南里」は既に仮説した那の邑(秦王国)には異民族が住み着いた場所でもあり、ここ(那の邑)に「南里」、那珂川町に「南面里」、須惠町に「南米里」の町名があっても不思議ではない。

 前述の帯方郡の「方」についても解説したが、「帯」は倭国と何か関係があったのではないのだろうか。

古事記の「欠史八代」の天皇の別名に「帯」の文字が使われ、その後の天皇にも「帯」文字が使われている。

 

 例えば、

第五代・孝昭天皇  大倭帶日子國押人(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)
第六代・孝安天皇 大倭帶日子國押人(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)

仲哀天皇(足仲彦天皇)帯中津日子神(たらしなかつひこのみこと)、 

神功皇后  息長帯日 売神(おきながたらし ひめのみこと)大帯比売命(おおたらしひめのみこと)

 上記の如く古事記では「帯(たらし)」、日本書紀では「足(たらし)」の文字が使われている。この「帯」は何を表わしているのか。 「帯」には次の意味があり、仮説を立てた。  ひとつながり。(人)を動かす。影響を与える。世話をする。面倒を見るなどがあり、古代中国では「帯」は人を動かす、世話などをすることに使用する語彙で、天皇は人の上に位置する人から考えると天皇の別名に使用されているのは納得できる。

    中略

 

 地理・地形並びに地名を参考に、筆者なりに仮説を立てました。 神武天皇は粕屋郡宇美町と大野城市にまたがる四王寺山に事代主命(ことしろぬしのみ こと)と武甕槌命(たけみかずちのかみ)(建御雷之男神)の二神を祀った。665年四王寺山に山城を築いた時には二神を王城神社(太宰府市通古賀)と春日神社(春日市)に移したと云われている(倭国とは何か。兼川 晋 不知火書房)。

 また宇美町には神武の原の地名があり、今後の調査如何によっては古代の事象が解明されると思う。残念なことには「磐井の乱」後、遺跡など歴史的文献などが消滅したこである。

 古代の粕屋郡一帯は謎に包まれており、考古学、歴史学などの諸先生方の文献・研究資料やや各諸国の風土記などを参考にさせて頂き、筆者なりの仮説を立てたに過ぎませんが、これが正しいかどうかは、今後の言語学、人類学、天文学、民俗学、考古学、地質学など各方面にわたる研究の調査や研究をまたなければなりません。

 

  大陸からの渡来人を述べる前に、2013年8月9日付け西日本新聞の「中国伝来の銅剣鋳型か」の記事で記載されたオルドス式銅剣鋳型が滋賀県の上御殿遺跡で発見された。

筆者は春秋戦国時代(紀元前770~同221年)、三国時代、秦王朝の倭国への渡来ルートとして、前回の論文では五つの仮説ルートをたてた。

1)南方から黒潮・対馬海流の経路、

2)長江流域から九州の経路、

3)大陸・朝鮮半島から九州・出雲地方の経路、

4)中国東北地域(粛慎、沃沮、夫余など)から幣賂弁(へろべ)島中継の北陸・東北の経路、

5)シベリアから蝦夷・東北の日本海側の経路、

 その中、3、4番目の朝鮮半島並びに北陸・東北の経路がオルドス式銅剣鋳型の有力ルートではないかと思う

 

 仮説が立証されれば、邪馬台国の存在も明らかにされる事を期待すると共に、論文作成の際、諸先生方や並びに諸先輩方からのご意見を賜り感謝に堪えません。

          著作者の許可なしに複写・引用・発表は法律で禁じられています。

                               
                      

      2011年4月筆者  笠松 守

 

 

 日本列島は嘆いている!

    第一章  風水から見た粕屋郡          2011年4月 寄稿者 笠松 守

 

                                       抜粋

 現在の日本列島は海に囲まれた島国ですが、日本の歴史を考える前に日本列島の誕生はどうだったのか知る必要があると思う。日本列島はユーラシア大陸の東側に位置し、日本海によって隔てられている。そして、日本列島の東側には太平洋が広がり、列島に沿うように日本海溝や南海トラフといった海溝ができている(図1の①)。

約4000 万年前には、日本列島はユーラシア大陸の東縁の一部であったが、大きな断裂が入り日本海として広がりながら日本列島は東側に移動してきた(図1の②)。・・・・・・・

       中略

・・・・・

 日本列島の中央部には、フォッサマグナと呼ばれる日本の大地溝帯が存在している。このフォッサマグナは、ユーラシア大陸から日本列島が分離する際に作られた大きな断裂(切れ目)であり、日本海が拡大するときに東北日本(時計の逆回り)と西南日本(時計回り)が別方向に移動したことより拡大したものである(図1の②)。したがって、フォッサマグナの両側は、ユーラシア大陸の時代に作られていた古い地層により構成されており、フォッサマグナ内部にはこれよりも新しい地層が分布している(図1の③)。

一方 フォッサマグナの糸魚川・静岡構造線から紀伊半島・四国を経て九州の阿蘇に至る中央構造線は、どの様に出来たのか。・・・

     中略

・・・・

 日本列島はこのようにして出来上がり、千島列島の北方ルート、南方ルート、大陸・朝鮮半島ルートから

の渡来人によって日本列島への移住がおこなわれた。筆者は地質学者、人類学者、歴史学者、宗教家ではありませんが学者の方々の研究、文献などを参考に視点を変えて考察すると違った現象が見えてくる。

 唐の時代に書かれた「撼龍経」によると、地球上の最も巨大な龍は崑崙山脈より東西南北に4支流が流れているという。そのうち西に流れる流脈はヨーロッパのアルプス山脈にまで流れ、南へ流れる龍は台湾から東南アジアへ、西へ流れる龍は中国本土へ、そして北へ流れる龍はモンゴルからロシアの最東端へと流れ、カムチャッカ半島を通って日本列島へと流れると云う。また長白山脈から流れる龍は朝鮮半島を縦断して、九州から富士山に到達していると推測する。

 

 「崑崙山脈の形成はインド亜大陸をのせたプレートが、1億3500万年(ジュラ紀)ほど前に独立し、北へ向かってゆっくりと移動をはじめた。そして数千キロにもおよぶ大移動ののち、4000万年前ごろにユーラシア大陸に衝突し、ユーラシア大陸の地殻を押しちぢめると同時に、インド亜大陸の地殻はその下へもぐりこんでいった。この結果、ユーラシア大陸は押し上げられ、ヒマラヤ山脈や崑崙山脈となった。インド亜

大陸の地殻のもぐりこみは、さらにチベット高地の厚い地殻をつくり、遠く天山山脈にまで影響をおよぼしたと云われている。」

                                    (ニュートン誌 1991Vol11No.8の記事から引用しています)。

                                  

 

 

 

 古代中国からの「天人合一」概念は、『広辞苑』によると「天と人とは理を媒介にして一つのつながりだと考える」とあり、「天」は天道で、自然であり、「人」は人道である。また北宋の思想家の張載(1020~1077年)は「天人合一」について、人間と万物はともに「天地の気」を受けて生まれ、人と万物自然は調和と均衡、統一の中にあると云っている。古代中国の風水思想では人には五臓、血液、血管などや脈があるように自然界にも湖、海洋、河川、山川、息吹といった自然の生命循環の器官があり、水脈、龍脈などがある。

人間は人間としての条理・道理に逆らわらず、自然万物にも自然の道理があり、最近云われている生物多様性はこの天人合一の思想ではないかと思う。

 これは人間の不条理による生態系破壊を云い表していると感じられ、この生物多様性は人間と万物・自然のバランスの崩れが大きな原因と推測する。地球温暖化による自然破壊や気候変動の影響も考えられるが、最近の異常気象による災害は想定外の現象と表現している人が多いのは自然の法則の認識不足ではないかと思う。

 筆者は宗教家、霊感・霊媒者、風水学者、易学者、哲学者ではないが、風水によると大地に流れる龍脈の様子を見ることで、その土地の運勢を見ることが出来るという。科学的根拠はないが地震や噴火は龍脈の乱れによって起きると云われ、「龍脈の乱れは運気の乱れ」とばかりに大昔は地震や噴火があると為政者達は占いをしていた。日本でも奈良時代辺りに風水の元型のような思想が伝わっていたという(遣唐使の大陸から伝承)。

 生物多様性の変化要因は社会状況の変化(人口・産業の変化など)、暮らしの変化(エネルギー消費など)、環境の変化(森林面積・気候変動など)が考えられ、生物多様性を理解すると共に人間は自然の恵みを忘れてはいけない。また2013年2月15日 隕石がロシアに落下した以降は気候変動、異常気象、洪水山崩れの災害が頻繁に発生しているのは、地球の地軸傾き23.4度に何らかの影響を与えたのではないかと想像する。NASA並びに世界の天文学者、気象学者、地質学者らは現在、隕石の分析、研究、地球軌道の分析などを行っていて、宇宙論の60年後には結果が報告されると確信している。 

 

  ・・・・・・・  中略。

 た志免町のゴミ焼却場は平成14年に解体して、活気が出た様に感じる。しかし月隈丘陵には古墳が多く、御霊や神々が宿り、東側の神領古墳群も同様、御霊が宿り、宇美町、志免町を守るも、それぞれの神々のエネルギーが弱まっている。龍脈上の昭和の森(宇美町)、平成の森(志免町)でのキャンプ場での「」の使用は龍にとっては忌み嫌う火の神様であり、龍を鎮める最大のエネルギーを発せられる環境状態にしなければ、地形、地理的を観ても韓国の河回村(ハフェマウル)や石堤里村に劣らない吉地が風水的には良い両町の将来が見えてこないのは残念だ。

 志免町の行舟型は竪坑櫓の重力で均衡が取れて安定しているかの如く見えるが、「氣」が乱れて不安定状態になっている。筆者なりに観察・霊感視、直感力、経験、知識、データ分析などで得た答えは風水的に地形、地理から判断して、宇美川は志免町の中心を蛇行・「S」字型を描きながら、博多湾に注いでいる。川は山と海との繋がりがあり、遮断することは出来ない。海の生き物(魚・海産物など)を山の神に供える「山誉め」祭りが昔は全国的に行われていたが、現代では数少ない伝統行事となった。一部の地方では海の神、山の神に感謝を込めた祭りが行われているものの、宇美川沿いの御手洗、亀山、王子、旅石八幡宮では月例祭はあるが、山の神、川の神々に感謝の祭りは行われていないと思う。

 ある風水専門家によれば、博多湾から志免~宇美町を見渡すと宇美川沿いの八幡宮が異常に感じると言われた。何が異常なのかわ聞き出せなかったが、東日本大震災を的中した筆者が予測すれば、自然災害特に津波などの発生性が考えられる。根拠は富士山の噴火に連動して、朝鮮と中国国境の白頭山の噴火により、日本海に津波の発生が現実性を帯びていると推測する。白頭山の火山性地震のデータが2年前から公表されていないことが不吉に感じる。

         ・・・・・・中略

                 

                                             

 

                                                                    

 著作者の許可なしに複写・引用・発表は法律で禁じられています。

 

                                      

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     2011年4月 研究・寄稿者 笠松 守

 

 

 

 

第二章  北九州には何故石炭層が多いのか。

                             

 研究論文

 

 論文 2

社会環境による文化への影響                       抜粋

 

はじめに。

古典的文化、人類学的文化、社会学的文化など[人類の移動に於いて、地域に密着し、気象、地域の風土などによって、影響されそれぞれの文化は発展すると考えられる。もちろん私は学者でもなければ、研究者でもないので、天文学、地質学、考古学、環境学、生態学などに関する資料全般の精査は不可能である。ですから各分野の先生方の研究,資料、文献などを視点の角度を変えて、分析しながら判断しなければならない。

まず、考察する範囲である社会環境の文化への影響は地球規模的観点から、地球誕生(46億年前)、人類の起源(原人ホモ・ハビリス登場、石器を使用、250~160万年前。フリー百科事典より)。(原人ホモ・エレクトス登場、火を使用、100~20万年前。世界大百科事典より) 。日本人は何処から来たのか調査する必要性がある。何故なら人類の移動によって移動先の地域地域によって文化は変化・進化したと考えられ、人類は自然や生物との関わりの中で共存・共有を学習し人類の生存を進化させると共に、食料難の解決の為、農耕文化が発展した。

ただ古代の各部族、各集団の人類が移動機関の鉄道、飛行機、車も存在しない時代に食料確保、子孫繁栄の理由とは云え、どのように移動したのか疑問が残る。

20万年前の人類誕生(ネアンデルタール人)に於いては人類相互間の基本である言葉、文字などのコミュニケーション手段は皆無と判断し、当時の原始人(正式な学術用語ではないが、理解を得るために使用)は聴覚、視覚、味覚などを活用して、動物的・本能的感覚が優れていたと推測される。動物、鳥類などの生物の如く、単一小集団の群れで前人未踏の地を外敵の恐怖を感じながら狩猟生活を送って、行動、移動を、拡散したのではないかと考えられる。

                               寄稿者  笠松 守 (執筆中)

 文化活動で申し上げました通り、文化・スポーツがまちづくりの一環となると考えます。

我が志免町に住みながら志免町の歴史を知らな過ぎる住民が多いのではないでしょうか。私が40年前に志免町に住み始めて以来、宇美川が何故河口付近で直角に曲がり、多々良川と合流して博多湾に注いでいるのが不思議に思い、歴史上の地形など文献を調べました。その後、志免町を中心にカタカナ旧字地名(例 アカザキ、タタラ、キンメイなど)が多く、また「~原(バル)、「~丸」は朝鮮語が影響している、また調査を重ねる中、これらの地名などに疑問を持ち, 旧字町名などは朝鮮語、中国語、ポリネシア語、ユダヤ語になどに関連があるのではないかと文献などを調査してみました。

 結果、古代粕屋郡一帯はユダヤ、大陸、朝鮮と関連があったのではないかと推測します。これら根拠は宇美川流域には亀山八幡宮、王子八幡宮などの八幡宮神社が多く、宇美町には神武ヶ原地名があり、古事記には神武天皇が四王寺山に事代主命(ことしろぬしのみこと)とたけみかずちのかみ(建御雷之男神)を祀ったと書かれていることから粕屋一帯は天皇家に何らかの関りがあったと推測します。

しかし、残念なことには「磐井の乱」後、遺跡など歴史的文献などが何者かによって消滅したことである。

 旧約聖書に記されたイスラエルの12部族の10氏族が世界に広がり、その一族シメオンと、シュメール人、秦族(八幡宮を広める)が志免近辺(現在名)で共同生活(文献 隋書より引用〉を営み

シュメール(英語Sumerian)、ローマ字Shu-me-ru がShu-meに変化、更にShi-meに変化。しめ、志免となる。また一説ではシメオンShi-me-on が簡略 Shi-meとなり、「しめ」「志免」とも推測出来ます。

(余談だが黒田官兵衛はドンシメオンという洗礼名を授かる。)

 古代には大陸から多くの渡来人の大半が北部九州に上陸し、近畿並びに日本各地に移動したと思われる。近畿地方には秦族、ユダヤなどの痕跡などが残されれているのはその証にもなります。

志免、宇美町にかけては歴史的にはまだまだ隠された物が数多く残されているのではないでしょうか。これら様々な角度から分析し、まちづくりに寄与されれば、観光資源ともなるでしょう。

                 論文 ”古代粕屋地区の背景について" 一部抜粋 著者 笠松 守

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちは未来への輝きと明るい人生を送れる様、あなた方にお手伝いの約束をします。

                                       ーMAMORU  KASAMATSU-

 

私は笠松 守 と申します。NPO団体しめテレビの代表をしています。

 

ビデオ制作に関する知識・情報の交換とビデオ制作技術の向上を推進し、福岡市及び志免町や粕屋郡内の行事・話題などを撮影することによって、まちづくりに寄与し地域同士間のコミュニティを高めると同時に観光案内、国際交流の活動をしています。

他に子どもたちがのびのびとした生活が送れる様 「キッズ チャレンジ スペース(こどもの居場所)」

「キック&イングリッシュ」なども行っています。

実用新案取得

     ■■■IMG_20141209_0003_NEW磁化処理装置1882100号.pdf

    磁気テープを使用した原糸.pdf

    農作物覆体.pdf

■■■IMG_緑のコーディネーター.pdf

■■■IMG_福岡県マイスターにんてい.pdf

■■■グランドワークパートナー.pdf

■■■IMG_九大グリーンエネルギー.pdf

■■■IMG_福岡市ソーシャルビジネス.pdf

IMG_キック&イングリッシュ申し込書A.pdf

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ご迷惑をお掛けします。

「福たび」とは、地域の体験やまち歩き等のツアーを展開することで、国内外の旅行者及び福岡市民、地域住民の参加を促進しするものです。​志免町では隠れた場所に魅力ある場所や、食文化や伝統文化も多くあります。

当団体では、地域活性化を目的に 「神功皇后の足跡ウオーキング」「「粕屋オルレ」など様々な提案をしています。

 風水から観た志免町行舟形 

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